乙女の書庫。

見たり読んだりしたものの覚え書き。

宗教って何?神って何?『沈黙-サイレンス-』

『沈黙-サイレンス-』を見てきました。

chinmoku.jp

17世紀、江戸初期。幕府による激しいキリシタン弾圧下の長崎。日本で捕えられ棄教 (信仰を捨てる事)したとされる高名な宣教師フェレイラを追い、弟子のロドリゴとガルペは 日本人キチジローの手引きでマカオから長崎へと潜入する。

日本にたどりついた彼らは想像を絶する光景に驚愕しつつも、その中で弾圧を逃れた“隠れキリシタン”と呼ばれる日本人らと出会う。それも束の間、幕府の取締りは厳しさを増し、キチジローの裏切りにより遂にロドリゴらも囚われの身に。頑ななロドリゴに対し、長崎奉行井上筑後守は「お前のせいでキリシタンどもが苦しむのだ」と棄教を迫る。そして次々と犠牲になる人々―

守るべきは大いなる信念か、目の前の弱々しい命か。心に迷いが生じた事でわかった、強いと疑わなかった自分自身の弱さ。追い詰められた彼の決断とは―

 公式サイトより引用

 

タイトルにも書きましたが、「宗教、神とは何なのか」を考えてしまう映画でした。

最近の世界情勢や、宗教が起こす事件などを見ていると、行き過ぎた信仰は人を排他的にする気がしてしまって。あまり良い印象がないです。もちろん、宗教によって救われる人もいるのでしょうが…。

映画の中で、キリシタンたちは処刑されるとわかっていても、踏み絵や十字架に唾を吐くことを嫌がります。キリストが描かれた絵や十字架は、ただの偶像なので、心の中でキリスト教を信仰していても、こういう場合は、踏んだり唾を吐いてもいいのでは…と特定の宗教への信仰を持たない私は思ってしまいました。信仰は心の問題なので、そんな形式張ったもの(偶像)に囚われなくてもいいんじゃないかな。

教会のシステムや偶像も後世の人が作ったもので、信仰の本質ではないので、そういうことにこだわるのはナンセンスな気がしました。キリスト教について詳しくは知らないので、的外れだったらすみません。キリスト教にしても、他の宗教にしても、最初は考え方みたいなものを説いていたのではないかと思うんです。それが、時代を重ねるにつれ、どんどん形式・格式めいたものになったり、後世の人の思惑によってやたら神聖視されたり、解釈が変わっていっているような気がしていて。

人は何かしらの安らぎや救いを求めて信仰を持つと思うんです。もちろん、ただ単に甘いだけが宗教ではなく、心を鍛錬するために厳しい修行もあるでしょうし、何かを成し遂げるためには試練を乗り越えることも必要でしよう。でも、この映画で描かれているキリシタン狩りは、試練というにはあまりにも重すぎて、絶望的なものです。個人の力でどうこうできるものではない。これを試練と捉えて、形式や偶像を尊重するあまり、無意味に殺されていくなんて、宗教として本末転倒な気がしました。

映画の中でも主人公のロドリゴ神父は葛藤していましたが、仮に神(またはキリスト?)がこの場にいたら何と言うでしょうか。「信仰を守って最後まで踏み絵をせず、死になさい」と言いますかね?それとも、「信仰はあなたの心にあればいいのです。今は踏み絵をして生きなさい」と言いますか?前者だとしたら、あまりにも勝手すぎませんか。神が本当に慈悲深いのだったら、後者を言うと思うのですが…。

そして、神様ってなんなんでしょうね。世界を見ると何の罪もない人がたくさん死んでます。悪い人が得をして、善い人が損をしていたりします。

宗教によって色々な考え方はあると思いますが、生きているうちに善い人を助け、悪い人を罰するのが神なのでしょうか。または、死後何らかの報償を与えたり、罰するのが神なのでしょうか。それとも、善いものも悪いものも全て受け止めるのが神なのでしょうか。苦しいとき、一緒に苦しんでくれるのが神なのでしょうか。

現実的に考えると、神なんていないと思ってます。そんなものは人間が作り出した都合のよい存在でしかない。でも、そんな私でも寺社仏閣を巡るのは好きだし、そこではお祈りしたりする。罰当たりなことをするのも抵抗がある。なんか有耶無耶な存在。やっぱり心の拠り所みたいなものが欲しいのかな。

感想というより、自分の宗教観みたいな話になってしまいましたが、普段考えないことを考える良いきっかけになりました。

映像も、台湾で撮っているのに、すごく和を感じる風景やカメラワークがあって、面白かったです。